最近私が読んでいる本の中に、『それを真の名で呼ぶならば』という本があります。著者は作家でありアクティビストでもある、レベッカ・ソルニットさんです。彼女の2008年のエッセイがきっかけとなり、主に欧米で『マンスプレイニング』という言葉が一気に普及しました。

    『マンスプレイニング』というは『男性が女性に対して偉そうに解説や説教をたれる』という行為につけられた造語です。おもしろいですね。これの何が問題とされているかといえば、単純に女性からして「ウザい」ということ以上に、男性側の「自分が知的優位に立っている=相手の女性が自分より知識に乏しいという前提」に対し、女性側がある種の抑圧や差別を受けていると感じている、ということのようです。

    私は戸籍上も性自認も女性です。日本で女性として生まれ、暮らし、仕事をしています。それなのに上段で私が他人事のような語り口であるのは、私が幸運なのか、それとも鈍感なのか、自分が「女性である」という理由で男性から不当な扱いを受けたという経験が、ぱっとは思いつかないからです。これまで自身が女性でありながら、フェミニズムについても私の関心は極めて低かったと言えます。

    その理由の1つは、おそらく「自分が男性よりも下位に属している」という感覚を、今も昔も私が持ち合わせていないというのがあるかしれません。昔、前職でセクハラにあったことはありましたが、そのときはそれによって自分を卑下したり、悲しみに暮れたりすることは一切なく、ただただ激しい怒りしかなかったので、下から弱々しく声をあげるというよりは、「あいつぶっとばす!」という気持ちで立ち向かったのを覚えています笑

    ただ、この『マンスプレイニング』という言葉を知って気がついたこととしては、私がフェミニズムに疎いのは、「自身が男性から差別的な態度を取られたとしても、その行為を指す『名前』を知らなかった、意識しなかったから」ということがあるのかもしれない、ということでした。『フェミニズム』という言葉も、割と最近認識するようになったくらいです

    名前が無いもの、名前を知らないものは、その存在を認識できません。こうして認識の枠を広げることが、『教養』と呼ばれるものなのかもしれませんね。

    それまで一定の長さの文章にしないと説明がつかなかったモヤモヤとしたものが、名前を与えられることで輪郭を持ち、はっきりと認識されるようになります。存在が認識されたものは、名指しできますし、それを題材に議論もできるようになります。抗議運動なども、名前が与えられた途端に活性化しますよね。名前が与えられると、それ自体が生を受けたように存在を顕にして、そこから新たな議論が生まれるという現象は、とても興味深いことだと思いました。

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