以前、当校に通う生徒さんとお話しているときに、「バスに乗っていたら、同じバスに乗っていた高齢者の人たちにジロジロ見られて居心地が悪かった」という話を聞きました。そのときはまだ緊急事態宣言下で学校が休校していた時期でした。ニュースやSNSなどでもほぼ毎日「子どもが道を歩いていたときに知らない男性から怒鳴られた」といった話や、「営業を続けている飲食店に嫌がらせの張り紙が貼られた」などといった『自粛警察』なるものが横行している様子が取り上げられていました。

    東洋経済オンラインに掲載されたFrontline Pressの記事のなかで、こうした『自粛警察』と類似するものとしては、太平洋戦争が始まる前年に政府が正式に組織化した『隣組』があるということが述べられていました。政府が組織化する以前から、地域社会の自主的な取り組みの中で『隣組』は機能していたらしいのですが、政府がそれを情報の一元化と配給手続きのための基礎組織として利用したという歴史があります。

    戦争が続くことでどんどん困窮していく人々にとっては、『隣組』によって相互扶助の関係ができ、それによって救われた人々もきっと多かったと推察できますが、その一方で、この『隣組』により相互監視の仕組みも生まれ、反体制的な言動を行えば憲兵や特別警察に密告されて拷問されるといった負の側面もありました。現代では憲兵などといった組織はありませんが、『自粛警察』は密告から私刑まで行っていることを考えると、「個人は全体へ奉仕すべき」という個々の思想が凶暴性を伴い、個人単体に濃縮されてしまったというような気がして、いささか寒気を覚えます。

    大人が子どもたちに倫理的な問題について、「そんなことしたら、『みんな』に嫌われちゃうよ」「そんなこと言ったら、『みんな』に変な目で見られるよ」といった論調で諭すのはよく耳にします。私も、この『みんな』のような「実態の不確かな全体」を意識させる教育を幼い頃から受け続けて大人になりました。これが日本固有のものなのかどうかは、私は専門家ではないので詳しくはわかりませんが、こうした価値観は全体主義との親和性が高いということはよく分かります。

    太平洋戦争の終結から75年が経ち、世代は1周回って殆ど一新されているはずなのに、『みんな』から浮いてしまうと全体に迷惑をかけるもの、足を引っ張るものとして排除されるという構図が、未だどうしようもなく存在しているということが、『自粛警察』の存在によってわかります。そしてそうした構図に変革をもたらすどころか、「国」全体が未だそれに飲み込まれてしまっているのが、今の日本の根深い現状と言えるのかもしれませんね。

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