思考と表現

    みなさんも義務教育の中で、よく作文を書かされてきたと思うんです。読書感想文とか、税についての作文とか…ああいったなかで「自分の考え、意見を書く」という練習をしてきたと思います。

    私の過去を振り返ったときに、よく覚えているのが中学生の時に書いた読書感想文です。そのとき私が題材とした本は、灰谷健次郎さんの『兎の眼』でした。たまたまその本が自宅にあり、手にとって読んでみたのですが、当時の私はその物語にとても胸を打たれました。今でいうところの「エモい」って感じですかね笑 とにかく感情を揺さぶられた作品でした。

    『兎の眼』の読書感想文を書くときに、特に熱を入れていたのは、物語を受けて自分の意見をどう書くかというよりは、自分がインスパイアされた場面や登場人物のセリフのセレクトの方でした。どのシーン、セリフを抜き出せば、この作品の素晴らしさを伝えられるだろうかと、そればかり考えていました。もう私自身、感動した場面が多すぎて、その全てを引用するには原稿用紙が足りず、泣く泣く削った部分がたくさんあったことを覚えています。

    しかし、それほどまで感動しておきながら、ではいざ自分の意見や考えを構築しようとしても、それはあまりうまく出来なかった気がします。あんなに熱を込めて書いた割に、自分の意見や考えについては、当たり障りのないことしか思い浮かびませんでした。登場人物と心を共にしたという疑似体験により、感じたものはとても多かったのですが、そこから「では私たちはどうしたら良いのか」「私たちはどうあるべきなのか」といった自分なりの意見や考えを構築して文章におこすとなると、何を書いたら良いかわからず、途方に暮れていました。

    「人はどうあるべきか」「社会はどうあるべきか」などといった思考を組み立てて文章にするには、当時の私は「人」や「社会」を知らな過ぎていました。また、それについての誰かの意見を読むこともしていなければ、人や社会について論じたことも殆どありませんでした。知識が乏しいために関連する事柄についての定義を立てられず、経験が乏しいために参照すべき意見や事象を取り上げて比較、検討することも出来なかったのです。

    つまり、「自分の意見」というのは、自分と相対する事象(もしくは作品など)の二者間のみで組み上げられるものではなく、現在における課題との関連性や類似性、歴史的背景(もしくはナラティブ)、そして他者の意見との比較の上で組み上げていくものだということです。「自分の意見」を思考し、表現するということは、実は相当に難易度が高いことなのです。

    それこそ、積極的に文学作品や歴史に触れるとか、新聞や論評を継続的に読むとか、異なる立場や視点に眼を向けるように意識するとか、そういった日々『考える葦』でありさえすれば、それは造作もないことかもしれませんが…(でもそれって大人でも大変じゃないですか??)

    教育改革の中で、『知識・技能』『思考力・判断力・表現力』および『主体的に学習に取り組む態度』という3本柱が掲げられていますが、正直申し上げて「簡単に言ってくれんじゃん?笑」と思ってしまいますね。もちろん、この3つの力は大人として自立するまでに育まれるべき重要な要素だとは思いますが、こういった力が声高に求められれば求められるほど、教育者側(親も含めて)のハードルが爆上がりしていくことになります。

    子どもたちに対して求められる力が高度化することで、彼らに学びを提供する側の高度化が求められることは当然のなりゆきです。そうなると「教師はその専門分野のみに特化していれば良い」などとする旧来の在り方は、もはや限界が来ているのかもしれませんね。

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