2019年10月に文部科学省が公開した、「2018年度におけるいじめ認知件数」は54万3,933件で、これは過去最高記録だそうです。前年度と比較すると12万9,555件の増加になります。

    今からおよそ230年前、フランス人権宣言において、「全ての人間は自由かつ平等であり、尊重されなければならない存在である」というイデオロギーが個人や民衆レベルを超えて、国家によって承認されました。その後、その価値観は世界中に拡散し、共有され、例えばアメリカ合衆国における南北戦争後の奴隷解放、世界大戦への反省から国際連合の発足、そして人種差別撤廃条約の締結などへと連なっていき、その結果、世界的に共有されている倫理観は少しずつではありますが、着実に改善されてきていると思います。

    数百年という長い目で見れば、人類が起こす戦争や紛争、弾圧と虐殺はその数を減らし、一見すると、人類は穏やかで思慮深い生き物に進化しているように見えます。ですが、ここ日本におけるいじめの件数は減るどころか増えています。特に「生徒間暴力」については前年度よりも1万件程増えているのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

    この問題の解決・予防法のために日本でよく用いられる道徳的手法は、「いじめられることがいかにツライことなのか」「いじめるということがいかに愚かしく残酷なことなのか」ということをあらゆる角度から描写し、説き伏せ、ときには子どもたちに議論させる(が、基本答えは1つしか許されない空気感)というのがあります。

    この考え方の根底にあるのは、「いじめる人間は愚かで残酷な性質がある」「いじめをしない人間(もしくは庇ったり仲裁する人間)は賢明で情け深い性質がある」という分断的な発想です。教師を始め、いじめに関与しなかった、もしくはいじめられる側の味方についた生徒は自身を後者に位置づけ、いじめた人間を、まるで悪魔か、別次元の生き物のように見ます。

    ただ、その発想そのものが、本当の意味で「いじめと向き合うこと」を遠ざけている気がしてならないのです。人間には賢明で情け深い性質は確かにあるとは思いますが、それと同じかそれ以上の愚かさと残酷性を持っていると私は思います。私たちが人間として生きている以上、その性質からは逃れられはしないのです。そうでなければ、グロテスクで残酷な映画が人気を博してしまうことの説明がつきません。いじめとは、単純に言ってしまえば「楽しいこと」なのです。

    いじめる側は、ただ「楽しいから」やっているのです。そしてそれは、誰しもが持ち得る快楽だという事実から、いい加減目を背けるべきではないと思います。
    アルコール依存症回復者の自助グループ『アルコホリークス・アノニマス』で、100年近く受け継がれている、依存症回復のための12のステップがあります。そのステップ1は、「私達はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」というものです。

    東京大学先端科学技術センターで「当事者研究」を実践する熊谷晋一郎准教授によると、このステップ1で促されていることは、能動や受動の枠組みを超えて、自身の有り様を叙述で表現することなのだそうです。

    アルコールに依存することを、自分の責任としてではなく、誰かの責任とするのでもなく、ただもうそこにあって抗いようがなかったのだと認める、というフェーズが、依存症回復の最初のステップなのだと私は解釈しました。

    これはいじめの問題にも通じるところがある気がします。加害児童だけでなく、その場にいる全ての人間には愚かで残酷な性質があるということを、まずは各々が認めるということから始める…そしてその抗いがたい性質とどう向き合い、どう付き合っていくべきなのかをみんなで議論する…(この答えは1つではないので、議論の余地が大いにあります)

    私たちは天使なんかじゃない。かといって悪魔でもない。いずれも愚かさと賢明さの狭間で、残酷さと慈悲深さを持て余している人間である、ということを忘れてはいけないと思います。