拡張の先に何があるのか
教室長の井口です。
最近、『拡張』という言葉が気になっています。今流行りのAR技術もこれからどう発展するのかとワクワクしています。
テクノロジーの発達によって人類は様々なものを『拡張』させて発展してきたように思います。道具の発達によって身体能力が、言葉の発達によって記憶媒体と思考プロセスが、交通網の発達で行動範囲が、通信の発達で情報の解像度と伝達範囲が拡張されてきました。
そして、このコロナ禍においてはサービスのオンライン化が加速度を上げ、これまで慣習的に同じ空間内で物理的に交わされてきたやりとりが、ついにインターネットの世界にまで拡張されてきています。これによって、特に日本社会で物理的に交わされてきた「不要なやりとり」とされるものが根こそぎ無くなるのでは!と、期待している人たちもいますね。
ただ、これを『拡張』と呼ぶべきか、『縮小』と呼ぶべきかは各々の価値観で変わるとは思います。身体の物理的な制約を超えて何かを成すことができるという意味では『拡張』していますが、もともとの人間の生身が持つ、言葉や画像だけでは表しようがないエネルギーやバイブス、人々が行き交ったり集結したりしたときに発生する独特のアンビエンスは、オンラインではかなり削られ『縮小』していることも実感しているところです。
オンラインへ人間の動きや存在が『拡張』していくということは、ある意味、この生身の身体の存在感が『縮小』され、薄れていくことを意味しているのではと考えています。とてもSF的な発想ですが、そうした社会が発達した場合、例えば生身でしか成立しえない妊娠や出産についても、その手段が変わり、それに伴って法制度が更新され、人が『産まれる』という概念そのものも、徐々に変化していくのでは…などといったこともつらつらと考えてしまうときがあります。
その『拡張』の先にあるのが、ユートピアなのか、ディストピアなのか…
時折ふと遠い目になって、そのような夢想をしてしまいます。