答えは風に舞っている
教室長の井口です。
現代人の生活においては、もはや情報は空気や風のような存在です。私たちは気がつくとスマホやタブレットを開き、SNS、動画、ソーシャルゲーム、電子書籍、ラジオなどの音声コンテンツ等を吸ったり、吐いたり、浴びたり、または振り回されたりしながら暮らしています。
こうしたオンラインコンテンツは、このコロナ禍では一層その数と多様性を増し、エスタブリッシュされていた大手のメディアはその影響力を失いつつあるように見えます。その一方で、オンライン上では個々人の発言力が増し、一定の知識を備えていると思われる人による『信頼できそうな情報』であれば、有名無名を問わずに注目が集まりシェアされています。
このようにあらゆる情報が氾濫する社会のなかで、如何にして私たちは『賢明なる受け手』になりえるのかという問いが今、突きつけられているのではないかと、最近より真剣に考えているところです。
実際のところ、私が今オンライン上で活用している媒体は10を超えています。そして今もなお、それは増え続けています。正直に申し上げて、その情報量に窒息してしまいそうな自分がいます。特に「この情報は本当のことなのか?どれほど信頼できるのか?」という問いにこだわって検証をしようとすれば、時間がいくらあっても足りません。
そのため、情報の受け取り方については、ある程度「いい加減な」受け止め方をしています。「こんな風に言っている人がいるんだ、ふーん」という具合ですね。ある生徒さんに、Quoraという非匿名性のQ&Aアプリを紹介したときに、「これが最も信頼できるものなのですか?」と聞かれました。そのとき私は「インターネット上にそんなものはないよ。ただ他のものよりもマシってだけ」と返しました。
その言葉は反射的に出てきたものではありましたが、あとでよくよく振り返ってみると、世の中に溢れている情報をいかに精査し良いものだと思っても「これはマシなものに過ぎない」というスタンスを取ることは、確かに大事かもしれないなと思いました。「これこそ唯一無二!最も信頼できる情報だ!」と思ってしまったが最後、そこで受け手としての思考は止まってしまいます。
『賢明なる受け手』にはそういった、ある程度のいい加減さとフットワークの軽さを携えた、風来坊のような在り方が良いのかもしれません。確かな答えというのは、誰かが握りしめているものではなく、どこかで佇んでいるものでもなく、風の中に舞っているのだとする心持ちを大事にしたいと、考えている今日このごろです。