『わかりやすさ』中毒
mohamed HassanによるPixabayからの画像
教室長の井口です。
体験授業を終えた生徒さんが「先生の解説がわかりやすかった!」という感想を伝えてくれることはよくあります。それはもちろんポジティブな意味合いで言ってくれていると理解していますし、担当してくれた先生に良い印象を持ってくれたのだと嬉しくなる一方で、どうも一般的に『わかりやすい』ことに価値を置きすぎている風潮があるような気がして、それに対する危機感を感じることがあります。
『わかりやすい』の対極として、『わかりにくい』ということがあります。『わかりやすい』ものは「手持ちの語彙、知識、イメージで理解できるもの」であるのに対して、『わかりにくい』ものは「手持ちの語彙、知識、イメージだけでは理解が難しいもの」と定義できます。
当然講師は問題のロジックを理解してもらうために、目の前の生徒さんの語彙・知識レベルと、身近なイメージを用いて解説してくれます。先生方によるこうした努力は賞賛に値することです。こういった解説によって、わからずに苦しんで停滞していた生徒さんの思考が、いわば長く暗いトンネルを抜け出した瞬間に目に飛び込んでくる青い空のように、明るく開けた場所へ導かれるといった、ある種の感動体験を得られます。
そうした体験を契機として生徒さんの勉強への意欲や積極性が増すことはよくあるので、こうした体験は重要だと私は考えています。しかし、こうした『わかりやすさ』の「中毒」になってしまうのはとても怖いことです。『わかりやすい』ものばかりを求めて、それを消費していては、その人の語彙レベル、知識レベル、そして想像力の伸びしろはありません。『わかりにくい』ものを摂取すること、もしくは摂取しようと試みることは、成長に不可欠なことです。
だからといって、その人にとって難解過ぎる語彙で、一定レベル以上の知識がある前提に立ち、なんらイメージの提供なく、ただ一方向的にもたらされる解説を受けるのは苦行でしかないですし、そんな授業こそ「勉強嫌い」を生み出す要因と言えます。肝心なことは、先生と生徒さんとのやり取りの中で、「問い」が発生するかどうか、そしてその「問い」を思考する余白があるかどうかだと、私は考えます。
「問い」によって人は考えます。手持ちのものでは考えを膨らませられないときに、先生が新たな知識やイメージを仄めかします。そうするとそれに目を向け、取り入れることで、自身の思考の領域を押し広げていきます。
いわゆる『わかりにくい』ものというのは、思考の余白が大いにあるものとも言えます。それゆえに「問い」が生まれやすく、それを起点にした受け答えの過程で新たな知識とイメージを得ることができるのです。したがって、『わかりにくい』と感じるものは、いわばフロンティアへの入り口であり、その人の可能性を広げていくという意味においては、とても価値があるものだと言えます。
相手が子どもだからといって『わかりにくい』ものを隠したり、必要以上に噛み砕く必要はありません。子どもたちはこちらが想像するよりずっと、言葉と言葉の間に漂うニュアンスを読み取ろうと努力しますし、相手を信頼していれば、わからないことをきちんと「問い」という形で示してくれます。
「なんとなくわかったような気がする」という状態に不満を持つ人は多いですが、本質的な学びというのは1つの点ではなく、繰り返し塗り重ねられて鮮明になったり、他の何かと線で繋がることで輪郭を得たりするものです。
逆に「一発で完璧に理解しないといけない」といった考え方が、『わかりにくい』ものを遠ざけ、『わかりやすさ』に逃げ込む傾向を生む出す要因になっているのかもしれません。その考え方は、私から言わせれば息がつまります。『わかりにくい』ものと向き合っているときのゆったりとした時間ほど、豊かで幸せなときはないからです。